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高校古文はどうしてつまらないか②

  • 執筆者の写真: 家庭教師のMIC
    家庭教師のMIC
  • 2023年4月17日
  • 読了時間: 2分


の続きです。



文法がある程度分かってきて、日本の現代国語と似ているけれど同じではないのが古文だと認識できると、ある程度文章の意味が分かってきます。そうすると、文章の中にそれなりに面白いものを見つけることができると思います。


『蜻蛉日記』の昼ドラ並みのドロドロ感。ギャル語に直すと意味がよく分かる『枕草子』。古代の腐女子が世俗の欲望に負けていく『更級日記』。どんだけ泣くのか『伊勢物語』等々。


しかし、それでも読んでいても困るのが、1つの文で主語が何度も変わるばかりか、書いていないことが多々あります。そのために敬語から主語を推定しなければなりません。面倒くさい…


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なぜこんなことになるのでしょう。


それは、文法ができてから言語ができたわけではなく、言語を解釈するために文法を作ったからです。つまり、古文を書いた人たちには文法などという概念はないものですから、昔の文章は現代的な作文技術や文法上のルールにお構いなしです。


さらに言語は発展するものです。 1,000年も前の語彙は限られています。ですので、1つの言葉に様々な現代的意味が込められます。 しかも、文字の使い手は非常に限定されており、狭い世界の常識を前提としたコミュニケーションツールですので、「あれ」といえば、「ああ、あれね」で結構通用してしまいます。


「ものす」で、①いる、ある②行く、来る③生まれる、死ぬ④する⑤いらっしゃる

「あはれ」で、①ああ、あれ②しみじみとした趣③寂しさ、悲しさ④愛情、人情、なさけ


怒りが湧きそうです。


しかし、そういう近代以降の言語に比べて未発達、未整理な段階で、しかも使い手が限られている中で作られた文章なんだなぁ、と考えると古文の理解が進む(あるいは古文を許す寛容さが生まれる)と思います。

 
 
 

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