実際的な体験の大切さ
- 家庭教師のMIC
- 2021年5月27日
- 読了時間: 5分
「知性」というと、学校の成績だけで考えられがちで、紙と鉛筆、それに口から発する言葉を鍛えれば身につくものと捉えられてしまいます。
しかし、それは官僚(サラリーマンを含む)制度に基づく現代社会特有のものです。
現代社会は様々な言葉によって、ルールが定められています。その最も代表的なものが法です。何をしてよいか、何をしてはいけないか、あるいはある行動の結果はどうなるかは、法律の条文と、その解釈と、その行間の「読み」(つまり、暗黙の了解や法のすりぬけ)によって予測できます。
例として消費税を挙げてみましょう。
売り上げが一定程度ある事業者は、消費税を払わなければいけません。払わなければ、罰則が待っています。ですので、事業者は消費税を払うために、商品に消費税を付加します。
消費者は商品を買う際に、10%の消費税分を負担することを知っています。軽減税率であれば、8%です。これの負担を拒否すれば、商品は買えません。
ただし、コンビニで買った商品を店内で食べるか店外で食べるかで税率が変わります。しかし、消費者がどこで商品を食べるかは、店側も税務署も追及しきれません。ですので、店内で買ったものは一律で軽減税率でよい、ということは、誰もが暗黙の了解としています。
こうしたルールというのは、必ずしも法だけに限られません。科学と科学技術の進展により、あらゆる場面において、「ああすれば、こうなる」という予測が立てることが可能になっています。こうやってパソコンを使ってネットを利用してブログを書いていることも、科学的な仮説の積み重ねによる論理的帰結です。
こうして現代社会においては、とにかく言葉の情報で将来の予測可能性を極めていくことが大切とされています。そのためこれまでに実証されたり組み立てられた「ああすれば、こうなる」ことを測るペーパーテストが重んじられます。なぜなら、様々な規則や法則を知っていれば、現代社会の秩序を理解することができるとともに、社会秩序の守護者にもなれ、権力や金銭に近づくことができるからです。

けれども、動物としてのヒトは、実は石器時代から進化していないのだそうです。では、石器時代の「知性」というものは、どういうものだったのでしょうか。
石器時代には紙や鉛筆もありませんし、試験どころか文字もありません。法もないですし、科学技術というものもありません。言葉も未発達です。古代において呪術が重んじられたのは、あまりにも予測不可能なことが多かったからです。
そんな石器時代における知性において、論理的思考による結論が占める割合は、さほど大きくなかったでしょう。むしろ、五感をフルに使って、様々な体験によって得られたものが多かったのではないでしょうか。
例えば、食べ物を収集する際に、何が食べられるのか、どこに何が生えているのか、さらに何が美味しいのか、というのは、経験によってしか得られなかったでしょう。科学的分析によって考えていたわけではありません。
つまり、人間の「知性」というのは、経験による知識の獲得の方が論理的思考に先行していたわけです。

しかし現代社会での「知性」は、言葉、特に文字に偏重しています。たとえ口頭で話していても、「知的な話」というのは、文字情報から得て考えるものになっています。そこでは、抽象性の高い論理性が重視され、往々にして経験は軽視されます。
それはなぜか、と言えば、現代の科学というものは、論理的に合っていれば、たとえ実際に見たり触れたりすることができなくとも、「正しい」と見なされるからです。
例えば、原子や電子、中間子、素粒子などは、見ることも触れることもできません。しかし、そういうものがある、と仮定すると、様々な事象が説明できるわけです。だから、そういうものが「ある」とする仮説が正しいとされます。人類どころか、地球、さらには宇宙が無かったのに、宇宙の始まりにはビッグバンがあったとされるのも、そのためです。
ですので、ある理論や公式から説得的に導くことができれば「正しい」と仮定することで、いわば演繹的に現代の科学は成り立っています。
ところが、演繹的で抽象的な説明が増えるにつれて、子供たちの「勉強なんか何の役に立つの?」という疑問は増えていきます。なぜなら、抽象的な説明が延々と続けば、具体性が乏しくなるため、実際の生活からかけ離れているように思えてくるからです。
ここで先ほどの石器時代の話に戻ってみましょう。
もともとの知性というものは、五感をフルに使って体験して得らていました。理論や公式というものは、その様々な体験から得られた情報から、共通の法則を見つけ出したものです。いわば、帰納的だったわけです。様々な物が落ちたり引き寄せられたりする様子を見ていなければ、ニュートンは万有引力の法則を発見できなかったのではないでしょうか。
ですので、一見学習には全く関係ないような体験を沢山重ねていると、学校で習う教科の内容も自ずから分かりやすくなっていきます。物を投げる体験をしていれば、遠心力について理解しやすいはずです。
単純に図式化すれば、こういうことです。

経験を通して様々な事象を知っていれば、そこから理論への理解が進みます。その理論を把握することができれば、すでに知っている事象を理解できるだけでなく、未知の事象を理解できたり、あらたな事象を発見できたりもします。
ただ、「体験」といっても、習い事だけを意味するわけではありません。その辺で走り回ったり、自然に触れたり、へんちくりんな工作をしてみたり、あるいは反対に分解をしてみたり。そうした「遊び」もまた、大変重要な体験です(分解は激怒したくなるとは思いますが…)。

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