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学習はなぜ必要なのでしょう?

  • 執筆者の写真: 家庭教師のMIC
    家庭教師のMIC
  • 2022年7月29日
  • 読了時間: 4分

中学生に対してまで、「受験生は夏休み中に1日10時間勉強しろ!」と言う方々がいるそうです。


しかし、私はそのようなことは絶対に言いません。なぜなら、労働時間に換算して過労死ラインに到達するような「勉強」はしてはならないと思っているからです。中国語で「勉強」とは、「無理強い」を意味しており、どうも日本ではそのマゾヒズムに耐えぬくことこそが大切だ、という感覚が強いです。


「余裕のない夏休みの計画は作らないこと」に書きましたが、私は中学生ならば1日に2時間+2時間(+2時間)、高校生ならば、2時間+2時間+2時間で、しっかり睡眠時間を取れるように、と指導しています。


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受験まであと半年以上あります。今からキツキツな「勉強」をしていると、たとえ合格しても、燃え尽きてしまって合格後にリタイアしかねません。


なにより、そのような「勉強」は学習の目的を忘れており、学習をあたかも日常生活とは切り離されたもので、受験というハードルを克服すべき対象としか見なしていません。


しかし、実際には学習というのは、まず日常生活から出来上がってきたものであり、さらに日常生活に生かされるものです。そのことを忘れてはならないでしょう。


例えば、例年8月上旬には、過去の日本の戦争に関する優れたドキュメンタリー番組や映画がテレビで放映されます。この内容は、まさに歴史や公民(政治経済、倫理)に直結するものです。つまり、ポテチを食べながらテレビを見ているだけで、学習ができてしまうわけです。


さらに、そのような学校の教科に直接関連する番組が毎年放映されるというのは、その内容が今さらにこれから私たちがどう生きていくのか、に直結するからです。


もしドキュメンタリー番組を見て、歴史や公民の教科書で習ったことが、人々の日常生活に直結した物事であって、それが現在の私たちの生活に関係している、と分かれば、ひたすら「勉強」をしなくても、習ったことは定着しやすいでしょう。


ですから、学校の教科というのは、実際の生活とかけはなれたものではなく、実社会を生きる上で「使うもの」「使えるもの」「使っているもの」であるということ、さらに参考書やワークをひたすら解くことだけが学習ではないことを、忘れて欲しくないです。


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私は無理強いだらけの「勉強」は批判します。ですが学ぶことの意義を否定したことはありません。なぜなら、「学ぶこと」は生きることに直結しますし、生きること自体であるとも言えるからです。


だからこそ、教科書や参考書以外の物事にも目を配らないと、折角学んだことも、生きることにつながりません。


別の例を出すと、地球温暖に伴う災害やコロナウイルス、ロシアのウクライナ侵攻などのニュースは、理科や社会の教科書の中に載っている事項と密接に関わってます。中学校レベルの教科書の内容で、相当部分を説明することができます。


テレビやラジオ、新聞、インターネットに掲載されるニュースは、予習復習のオンパレードです。国語や数学、英語にだって沢山関わる話題が出てきます。主要5教科以外の4教科の内容も。


ですのでニュースだけは、毎日しっかり触れていてもらいたいです。それは、受験のためだけでなく、将来社会を生き抜いていくために、自分で判断する力を養うためです。


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フェイクニュースが溢れる世界で、さらに噂社会の日本では、氾濫した情報や噂にばかり気を取られていると、右往左往するばかりの人生になってしまいます。さらに、人は自分に都合の良い情報を信じる傾向があります。


そんな時に信じたくないものであっても、実際にきちんと根拠のある情報を受け入れて判断し、行動ができるようになるには、科学的な思考が大切になります。その基礎が学校で学ぶ教科です。


単に受験のために苦痛を克服する過程として「勉強しなきゃ」としか思っていなければ、そこで学んだことは、これまた「信じたいこと」にしかなりません。


そうではなくて、「生きること」のためのものとして教科を学び、それを日々の生活で応用してもらいたいものです。その方が人生の幅が広がりますし、楽しみも増えていきます。


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でも、学ぶことが常に楽しいわけではありません。常々話していますが、人生は「めんどくせー」の連続です。でも、仕事は9割が苦痛でも、1割が楽しければ耐えられるものです(もし10割が苦痛であれば、絶対に逃げましょう)。


それを勘違いして、1割苦痛だから学ばない、とは思ってもらいたくないです。人生には生老病死があるように、楽しいだけの人生などありえません。


そもそも、「楽しい」という感覚は、普段が楽しくないから「楽しい」と感じるものです。そんな「めんどくせー」の連続である人生において、どれだけ「楽しい」の割合を増やせるかは、学んだことがどれだけあるかによって、相当に変わります。


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10割苦痛の「勉強」をしてはいけません。そんな「勉強」をしていれば、10割苦痛の人生を歩みかねません。でも1割の苦痛で学ぶことを放棄してもいけません。もし1割の苦痛で学ぶことを放棄するのであれば、1割の苦痛で人生も投げ出してしまいかねません。


歳をとると、「あの時もっと学んでいれば」「あの時学んだことを覚えていれば」と思うことが日常茶飯事のように生じます。そのことは、学ぶことが人生そのものに直結していることを証左しています。


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