学校は「正しい」場所というわけではない
- 家庭教師のMIC
- 2021年10月15日
- 読了時間: 3分
更新日:2021年10月24日
小学校や中学校、高校、大学は何のためにあるのでしょうか。もしかすると、「正しい」ことを教わるためにあると思わているのかもしれません。
しかし、学校教育で教わる教科が基づく科学というのは、「正しい」ことに基づいているのではなく、多数に支持されている、より説得的な「仮説」に基づいています。したがって、支持される「仮説」が変化すると、教科の内容も変化します。学校の教科というのは、絶対的な真理というわけではありません。
例えば「必」の書き順を調べてみて下さい。実は「正解」とされる書き順は、教科書に載っている以外にも、複数あります。つまり、学校で習っているのは、今現在最も支持されている「仮説」なわけであって、「真理」ではないのです。

そもそも日本の学校教育制度は、明治時代に打ち立てられた、「国民」を作る、さらには国を支える官僚(民間企業を含む)を育てるという目的から大きく変化したことはありません。
つまり、日本の学校教育制度というのは、個々人の生きる能力を伸ばすことを中心的な目的にしておらず、根本のところで「お国のため」にあるわけです。
では、「お国のため」にある学校教育は、個々人の人生には役に立たないのでしょうか。
私は、「役に立つ」と回答します。なぜなら、この社会は学校教育を前提に成り立っているので、学校の教科を学んでおけばおくほど、この社会の成り立ちを理解しやすくなるため、生きる手段も生きられる場も広がっていくからです。
そういう意味で、私は教科の内容を学んでおくことが大切だと思っています。
ただし、前述したように、その教科の内容は時には変化するものであり、絶対真理ではありません。ですので、学校教育に人生を丸呑みされることだけは避けたいです。
そうではなく、「お国」の都合に基づいて作られていても、個々人は学校教育で利用できるものを吸収し、各々で自分の人生に利用するという、打算的な考えでもよいのではないでしょうか。
教師も自身を絶対真理を教える「聖職者」などとは思わずに、学校とは「お国のため」を利用してカネを稼ぐ場である、くらいに気を張らずに仕事をしてもらいたいです。

このように言うと、一見無責任な主張に思われるかもしれません。しかし、昨今の学校の状況を見ると、誰もが学校に期待をしすぎているために問題が起きているような気がしてならないのです。 保護者や児童生徒は、学校に過度に期待せずに、自分の生きる手段を学ぶ場として学校を利用し、それ以上に得られるものがあれば、それを幸運と思って喜ぶ。 教師も、自分の生きる糧を得る場として学校を利用し、それ以上に得られるものがあれば、それを幸運と思って喜ぶ。
そのくらいの心構えであれば、誰もが学校という場に児童生徒が通うことに神経過敏にならずに済むのではないでしょうか。 ところが、学校に対して「それ以上の幸運を得られることが当たり前」だと思ってしまうと、保護者の過度なクレームや、児童生徒間のいじめ等の問題が起きたり、教師の行き過ぎた指導が生じてしまいます。 学校や学校教育とは、人生の一部に過ぎません。学校に関わる方々は、誰もが学校から離れる時間と空間を持って、学校を相対的に見られるようにしてもらいたいものです。

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