学校に通う価値は、一人一人違ってよい
- 家庭教師のMIC
- 2023年4月6日
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なぜ学校に通わなければならないのでしょうか。
それは当然ながら、教育を受けるためです。
では、その教育というのはなぜ必要なのでしょうか。
公教育の制度というのは、その起源は必ずしも個々人の幸せを願って作られたわけではなく、むしろ国家が国家の繫栄のために必要な人材を育成するために作られました。
そんな国家の都合で作られた公教育でも、やはりきちんと受けて、その内容をしっかり学んだ方が、個々人が人生を送る上で有利になります。
なぜなら、公教育の内容は、この社会の仕組みの基礎になっているからです。公教育の内容を理解すればするほど、社会の仕組みをより理解できるので、生きやすくなるわけです。
なので、学校での試験の成績や評定が良ければ良いほど、やはり将来的に社会で生きやすくなる「可能性」は高まるでしょう。
しかし、「ふつう」の児童生徒を想定した学校での試験や評定に適応できない児童生徒もいます。代表的なのは発達障害の児童生徒です。
そうした児童生徒はどうしたら良いのでしょうか。
ここで思い出していただきたいのは、学校は集団教育なので、社会との接触を学ぶ場でもある、ということです。
すなわち、「ふつう」になれない自分が、「ふつう」を求める社会とどう折り合いをつけるか、あるいは社会にどうやって「ふつう」ではないことへの理解を求めるか、を学ぶ場にもなります。
そうした児童生徒にとっては、良い成績をとることではなく、授業を受けることや、部活に励むこと、友達をつくること、あるいはとにかく毎日学校に通って授業時間に座っていることや、学校にわずかな時間でも通うことが目標であっても良いと思います。
あるいは、心身が疲れ果てていれば、学校に通わないことも大切な判断です。それは休むことの大切さを学んでいることになります。
児童生徒は、生まれつきの特性や家庭環境、疾病などによって、それぞれ置かれている環境が違い、「ふつう」に当てはまらない場合も少なくありません。ですので、それぞれの児童生徒によって「学校に通う」ことに見出す価値が違っていてもよいと思います。
学校を「従う場所」と絶対視せずに、「利用する場所」や「考える場所」と相対視してみて下さい。そうすれば、それぞれの児童生徒とその保護者にとって、学校ですべきことは異なってきます(教師にとっても)。
「ふつう」になれない児童生徒とその保護者の方は、成績を絶対視せずに、学校に通う価値とは何かを考え直して、通知表に表れない価値を大切にして学校を利用して頂きたいです。

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