思考の仕方もまた多様
- 家庭教師のMIC
- 2021年6月11日
- 読了時間: 4分
学校での試験は、身に着いた知識を測る道具です。「学校の成績なんかどうでも良い」と言っている人でさえ、内心試験での点数が良い方が「良い」と考えています。
そのことを否定する気はありません。
ただ、試験の成績=「知性」ではないことは忘れてはならないと思います。
学校の試験というのは、決まった時間内に、それまでに学習した知識と手段を通じて、どれだけの問題の「正答」を導けるかを競います。つまり、思考の「速さ」と知識の「広さ」を測っています。
ところが、思考というのは、「速さ」や「広さ」だけではありません。「深さ」というものもあります。
単純な図式化をすれば、以下のようになります。

「速さ」と「広さ」だけを追求すると、そこから生まれるベクトルは「深さ」に相反します。そうなると、浅薄な、条件反射的な思考しか身に付きません。
また、「速さ」と「深さ」だけを追求しても、それは「広さ」に相反します。そうなると、狭隘な、視野の狭い思考しか身に付きません。
近年の教育改革は、上記の2つの思考方法ばかりが追求されているように思います。あたかも、「広さ」と「深さ」という、「速さ」に相反する思考をしてはならない、と言わんばかりです。
そんな要求が強まるのは、日本の教育がそもそも欧米へのキャッチアップをすることを目的に成立し、途中戦中の軍事教育を挟んで、現代に至るまで画一的な官僚や企業の人材の形成を目指しているからでしょう。
しかし、人生というものは、必ずしも仕事のためだけにあるのではありません。仕事はあくまでも人生の手段です。
そんな人生において欠かせないのは「感動」という情念的な衝動です。この「感動」は往々にしてこの「広さ」と「深さ」という「遅い」思考によって生まれます。
芸術家の仕事も、「遅い」思考をする瞬間が無ければ成り立たないでしょう。
そんな遅さが本当は求められる学習内容があります。その例は、詩歌です。
詩歌は少ない言葉をかみしめながら、様々な情景や心情等を思い起こして、自らの感情を揺さぶるものです。詩歌を作成する者も、膨大な時間をかけて、自らの感情を少ない言葉に込めます。そこでは「広さ」と「深さ」の思考が大切にされます。
典型的なのは、歌会始です。
ですので、詩歌は本来ならばじっくり時間をかけて、ゆっくり味わうべきものです。さらにそこで感じられる感動というものは、一人一人によって異なるはずです。詩歌は言葉が少ないだけに、解釈を受け手の一人一人に任せていますから。
ところが試験では、詩歌の問題を解くのに、時間制限がかけられるという矛盾がそもそもありました。
さらには、近年「論理国語」というナゾな代物がもてはやされるようになり、詩歌だけでなく物語もが軽視されるようになりました。
これは非常に危険な兆候です。権力から与えられた文章を、「正しく」読み解いて、「正しく」考えて答えなさい、と求める傾向が強まっていることの証左だからです。そこでは、「正しい」以外の思考はしてはならない、という権力作用が働いています。
しかし、「長いもの」が必ずしも「正しい」とは限らないことは、ナチスドイツの歴史を振り返ればわかります。ナチスの支配下のドイツでは、ナチスの要求に応えることが「正しい」ことであって、多くの人々がそれを支持し、抵抗すらしませんでした。
また、近年「イノベーション」とか「クリエイティブ」と言った言葉がもてはやされますが、「革新的」とか「創造的」なものというのは、それまでの常識をある程度逸脱することで生まれます。それが生まれるきっかけには、じっくり考える時間が大切です。
画期的な事物を生み出す企業において、往々にして瞑想が重視されているのは、偶然ではないでしょう。「速さ」ばかりが追求される社会において、立ち止まってゆっくり考え、俯瞰的に物事を考えるからこそ、想像/創造できるわけです(瞑想だけでなく、ヨガや太極拳が有効だと思います)。
ですので、詩歌など、一見ムダで役に立たないような、「広く」「深く」を追求し、ゆっくり考えさせるような物事も、大切にしてもらいたいです。日々多忙に過ごさなければならない現代においては、その「遅い」思考は行き詰っている時に、人生に思わぬ突破口を与えてくれるかもしれません。

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